お知らせ
第61回 「私の生い立ちと歩み」
2011年12月03日
思いかえせば、彼は私を過大に評価し、私が何気なく云ったことが彼の方向づけになったと感謝されたり、本音の相談相手になったりして来ました。しかし、私の方も年下の彼に色々と教えられることが多くありました。
琴弾公園内の『鉄道寮』で市内単位団の役員が大勢集まって“青年団指導者講習会”なるものをよく開いていました。20歳代前半で、まだ石炭の注文とりやトラックの運転手など、肉体労働も含めて超多忙の私は、もう始まっている会に後から参加して、会議の流れが目的とズレた方向に進んでいると感じた時などは、いろいろと発言して修正の方向へもってゆこうとしていました。「社長(と彼は、いつもそう呼びました)。あんたの意見は鋭い。本質をついた発言じゃきんどなあ。途中から来て云うんでは、皆が、すんなりとは受け入れにくいんではないかいなァ。」と、彼に注意されました。
人を論理だけで説き伏せても真の理解には至らないのではないか。机やイスを並べたり、マイクの準備をしたり、事前の共同作業から全部一緒に汗を流すことで、お互いの理解や連帯意識が深まってゆくものだ、と彼にやんわりと諭されたのです。このことは、五十数年後の今も私の中に鮮明に残っていて、集団の中の自分の生き方を指し示してくれているように思います。
請川君は、10数年後に2度目の入院をしました。心臓主管のつまりは、カテーテル手術で成功でした。私は入院室へ入ろうとして思いとどまりました。「よかった、よかった」とお見舞の声をかけたなら、きっと彼は情が激して血圧が上がるのではないか、と思ったからです。廊下の壁際へ立ってじっとしていました。ハウス栽培で、ネコの手も借りたい時季だったと思いますが、ずっと奥さんがついていて彼が奥さんに話している声が聞こえます。「廊下の向こうに社長が来とって、ワシの事を案じて、はいって来とらんこと。ワシは寝とっても、チャーンとわかっとんじゃ。ありがたいことじゃ。」―と。びっくりしました。どうしてわかったのでしょう。彼のカンの良さは若い頃から驚く程のものがありましたが、友情のテレパシーが彼に届いたのでしょうか。帰宅後長女にそのことを話したら、30年後の今も覚えていて先日もその話をしました。
この私の長女と請川君の長男が中学校では同クラスでした。社会科の時間に「四国の四大河川は?」と先生に当てられた彼は、最後の一つになって詰まってしまい「ウケガワ」と答えて、クラス中が爆笑したと云う愉快なエピソードの青年でした。大卒後、勤務先で心通わす女性にめぐり合えたとのことで相談があり、ある夜私は女性の父君を訪ねました。その方は大組織の経営責任者でしたが教養深さを感ずる謙虚な方で、私の話を静かに聞き入れて下さり、若者たちの未来を念じてと、受け入れてくれました。その報告をした時の請川君のほっとしたような父親としての笑顔も忘れません。
彼は本当に家族思いの人でもありました。次男の長期入院、奥さんの入院とリハビリなど彼の晩年は精神的に厳しい日々であったろうと思います。
山岡君没後10年となり、「さみしくなった。お互いに健康には気をつけよう」などと1ヶ月1回の青年団OB会の午食会では、よく語り合って来ていたのですが、この請川君との突然のお別れがやって来たのです。







