お知らせ
第60回 「私の生い立ちと歩み」
2011年11月11日
誠実な生き方そのもので私の心に結びついていた山岡君が往って10年以上経過しました。「何と云うても健康が一番じゃのー」と請川君とも合うたびごとに話して来ました。
その請川富士夫君との交友は、私達お互いが高校生の頃からです。私が観一高3年生の時、彼は笠田高1年生でした。観一高社会部の後輩、本林君の紹介で請川君を知りました。太めの、はち切れそうな健康体で、いつもニコニコしていて、彼には「安心感」がただよっていました。
当時は、戦後7年を経過していました。敗戦直後の急激なインフレの後で、ドッジラインが引かれて、デフレ経済に移った後、朝鮮戦争がおこって、警察予備隊~自衛隊となって、再軍備を進めた頃でした。「戦争放棄を宣言した新憲法下で自衛隊は矛盾しないのか」「再軍備は是か否か」などと、高校生の私達が、口角泡を飛ばして議論していました。自分たちの国の将来はどうなるのだろうかと、みんな真剣でした。
あれから60年。孫たちの世代を見ると、受験が中心の勉強で世の中の動きや、自分たちの未来を考えることに弱いのではないかと思う時があります。私達は進学せず、高卒後も私は家業の石炭屋の仕事で、ずっと地元で生活していましたので、折をみては高校へ寄り、後輩の議論に加わったり、討論会や弁論会の指導らしきことをしたりしていました。文化祭では、観一高、観商高、共に演劇「佐倉義民伝」を演出し、2校共に大好評を得ました。こんな時、請川君は放課後、他の友人もつれて笠田高校から応援に来てくれました。太めのどっしりした体形で柔和な彼は、仲間から信頼を寄せられいつもリーダーシップを発揮していました。
私が、市青協(市青年団体連絡協議会)の会長に就任した時は、彼は傘下の単位団の一つ、木之郷青年団の団長となっていました。この地方では青年団は25才で最年長となり、団長職などの要職につくのですが、彼は人望があり、23才で団長となったのです。いつも新しい視点に立って発言実行する彼は、新時代の農業をめざした農村改革の旗頭の一人でした。青年団は前記した通り、青年の力で農村の古い因習を打破し、民主的な家庭づくり、地域づくりを目ざそうとする運動を全国的に進めていました。綱羅制組織ですから中卒、高卒、大卒を問わず学校を卒業すれば地域全員の男女が自動的に団員になるのです。若者のその数は一つの大きい力でもありました。
地域ごとの組織とは別に、多くの委員会やサークルが生まれました。演劇サークル、歌声サークル、生活綴り方サークル、リクレーションサークルなどなど。なつかしい思い出がつまっています。歌声サークルでは多方面の歌を彼も一緒に習い歌いました。誰かの結婚式の時「今日は良い日だ、みんな元気で、こうして集まり・・・」と歌ったのを、請川君うまいなァと思いながら手拍子を打ったことを鮮明に覚えています。また、青年団の会合では、彼と2人でフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を合唱したこともあったなと思い出します。昭和30年代の農閑期は、彼や山岡君に私の会社の石炭配達などよく手伝ってもらいました。彼は私と対照的にすばらしい体格で暑くなると、裸に近い格好でスコップを持ったりカマスをかついだりしていました。山岡君同様、家族ぐるみのお付き合いとなって行きました。「神経がこまやかでキモが太い人」と家内が評していましたが、新米や野菜などが出来ると「まあ、こんなに」とびっくりする程の量をかついで玄関へ積み上げてくれるのです。
そんな彼が40才になった頃、心臓発作で畑に倒れました。彼は救急車が来る前に「社長に連絡してくれ」との事で、私はとるものとらず総合病院へかけつけました。幸い手当も早く、短期間で退院する事が出来ましたが、私の家では私と妻と長女3人で琴弾八幡宮最上階の階段を上下して「お百度参り」をしました。このお参りは誰にも云ってはいけないとのことで、今日まで封印しておきました。







