新着情報

お知らせ

一覧に戻る

第98回 「私の生い立ちと歩み」

2015年01月06日

しかし、考えてみれば、私達の時代は、塾などはなく、ほとんどの子どもが家の仕事の手伝いをさせられていて、家の誰かに勉強を見てもらったと云うことはないと思います。妻も父親は学校の先生でしたが、父母にも誰にも教わった記憶は一度もないと云っていました。責任逃れではありませんが、当時は、家族みんなが生きるために働くだけで精一杯の時代だったのだと思います。
さて、妻は当時の青年団女性部の人達を相手に料理の講師として、毎週土曜の夜、高室公民館へ通うようになりました。妻は料理が得意で、手早く、その分私も家族も今日までずいぶんその「恩恵」に預かってきました。嫁に対しては厳しかった母も、妻の料理に関してはすべてOKでした。
“講師”のいきさつは、当時農村青年団活動の中味について論議した時、私は「我々は評論ではなく、もっと現実を改善出来るような実学を勉強し、実践するべきではないか」「例えば卵やバナナなど、それぞれ単品で食べてもおいしい物を使った特別教室を学ぶのではなく、農村の身のまわりにあるイモ・大根・ナンキン・青菜…サバ・イワシなどの食材を使って、それをおいしく食べられるような料理をマスターすべきではないか」と提起しました。「その通りだが、それでは、その先生を紹介して欲しい」となりました。私は妻に相談し、意義を力説して妻がその講師となることを承知してもらったのです。今から50数年前のことですから、現代のように、テレビや新聞、雑誌などで色々と料理法が紹介されているわけではありません。
妻はあれこれ考え工夫しているらしく、メモをとり、カロリー計算などもしていまいた。私は、多忙な妻にさらに重荷を負わせたかなと窺っていたら、妻は料理教室の日は生き生きとしていました。
公民館で若い多くの女性と共同作業をして、食材を調理し味付けをする。そのポイントはこことここだと指導しながら、出来上がったものを盛り付けして、みんなで一緒に賞味するのはとても楽しいし、おしゃべりも勉強になると云っていました。「先生」と呼ばれていたらしいのですが、妻は独身時代に、小学校の臨時教員をしていたとのことで、割合平気な様子でした。こうして料理教室は好評の内に続いて行ったのですが、夕方から夜にかけての往復が困りました。当時は会社も個人も乗用車はなく、又、公民館に公衆電話はついていません。私はガス配達先の聞き間違いで時間をとられ、そのスクーターで迎えに行く予定のタイミングがずれてしまって、2時間以上妻を待たせてしまった事も覚えています。
遠い時代のことですが、私達が熱心に取り組んでいた「生活綴方運動」は、他地区との合評会に発展し、評論家の佐々木基一氏に評価されたりしましたが、そうした場で料理教室の話が出ました。『その人』を他の地区へも派遣してもらえないか、と云われ、妻に話しましたら、みんなに期待された事を喜び、行きたい気持ちはあるけれど、でも、これ以上の時間はとてもとれないとのこと。さらに妻は長女を身籠っていて、その後3~4ヶ月くらいの間に高室青年団の料理教室も退任させてもらうこととなりました。
次回へつづく

しかし、考えてみれば、私達の時代は、塾などはなく、ほとんどの子どもが家の仕事の手伝いをさせられていて、家の誰かに勉強を見てもらったと云うことはないと思います。妻も父親は学校の先生でしたが、父母にも誰にも教わった記憶は一度もないと云っていました。責任逃れではありませんが、当時は、家族みんなが生きるために働くだけで精一杯の時代だったのだと思います。

さて、妻は当時の青年団女性部の人達を相手に料理の講師として、毎週土曜の夜、高室公民館へ通うようになりました。妻は料理が得意で、手早く、その分私も家族も今日までずいぶんその「恩恵」に預かってきました。嫁に対しては厳しかった母も、妻の料理に関してはすべてOKでした。

“講師”のいきさつは、当時農村青年団活動の中味について論議した時、私は「我々は評論ではなく、もっと現実を改善出来るような実学を勉強し、実践するべきではないか」「例えば卵やバナナなど、それぞれ単品で食べてもおいしい物を使った特別教室を学ぶのではなく、農村の身のまわりにあるイモ・大根・ナンキン・青菜…サバ・イワシなどの食材を使って、それをおいしく食べられるような料理をマスターすべきではないか」と提起しました。「その通りだが、それでは、その先生を紹介して欲しい」となりました。私は妻に相談し、意義を力説して妻がその講師となることを承知してもらったのです。今から50数年前のことですから、現代のように、テレビや新聞、雑誌などで色々と料理法が紹介されているわけではありません。

妻はあれこれ考え工夫しているらしく、メモをとり、カロリー計算などもしていまいた。私は、多忙な妻にさらに重荷を負わせたかなと窺っていたら、妻は料理教室の日は生き生きとしていました。

公民館で若い多くの女性と共同作業をして、食材を調理し味付けをする。そのポイントはこことここだと指導しながら、出来上がったものを盛り付けして、みんなで一緒に賞味するのはとても楽しいし、おしゃべりも勉強になると云っていました。「先生」と呼ばれていたらしいのですが、妻は独身時代に、小学校の臨時教員をしていたとのことで、割合平気な様子でした。こうして料理教室は好評の内に続いて行ったのですが、夕方から夜にかけての往復が困りました。当時は会社も個人も乗用車はなく、又、公民館に公衆電話はついていません。私はガス配達先の聞き間違いで時間をとられ、そのスクーターで迎えに行く予定のタイミングがずれてしまって、2時間以上妻を待たせてしまった事も覚えています。

遠い時代のことですが、私達が熱心に取り組んでいた「生活綴方運動」は、他地区との合評会に発展し、評論家の佐々木基一氏に評価されたりしましたが、そうした場で料理教室の話が出ました。『その人』を他の地区へも派遣してもらえないか、と云われ、妻に話しましたら、みんなに期待された事を喜び、行きたい気持ちはあるけれど、でも、これ以上の時間はとてもとれないとのこと。さらに妻は長女を身籠っていて、その後3~4ヶ月くらいの間に高室青年団の料理教室も退任させてもらうこととなりました。

次回へつづく

ページ上部へ