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第97回 「私の生い立ちと歩み」

2014年12月06日

観音寺市港町から、現在の市役所前に敷地を購入し、本社社屋を移転新築するなど、当時の会社の力量いっぱいの投資をして、正に「清水の舞台から飛び降りる」ような決断を迫られた時期でしたが、高度経済成長の追い風の中で、私は全社の先頭に立って、経営理念も方針もなく、ただ進め進めの毎日でありました。次々と新規の仕事を見つけ出し、中途採用で新部門を増設し、多能者を育てて行かないと事業展開が間に合わない日々でした。日常の仕事の上に、青年団やサークル活動がいっぱい重なって、私は毎晩遅くなり、眠る時間がないくらいの日々でしたが、それでも気持ちは充実していました。
当時、LPガスは重量販売で、各家庭からガス切れの通知があると急いで配達していました。朝食・夕食の支度をする時間帯が1番忙しい時でした。夜、社員が帰宅した後にガス切れの通知があり、留守の多い私に変わって妻が配達したこともよく知っています。お客様がいるのに、配達がおそい、と先方のご主人に叱られた話は、50年経った今になっても話題となる時があります。
私の母は当時60代の前半でしたが、父親亡き後ずっと石炭の現場仕事を続けていて、この時代はまだいくらかは残っている石炭販売の他に練炭や木炭、コークスなどの仕事をしていました。LPガスのような新時代の商品の対応は全く無理でした。時々に子守りをするくらいだったと思います。妻は事務をしながら、長女と3才下の長男を育てていました。その上に食事をはじめ家事一切がかかって来ていました。日中に出来なかった一般事務の仕事や社員の給料計算書などは子どもが寝静まってから夜半にかけて、よくやっていたようです。
長男が3才になった頃、次の子が生まれる事になりました。もうすぐ私も3人の父親になるのかと思っていましたら、ある日妻から「お医者さんから心音が2つ聞こえる」と云われたと告げられました。お腹に双児がいると云うのです。びっくりしました。私達は一度に四児の親となるのです。産まれて来たのは、男児と女児の2人でした。双児は1万組の夫婦に1組の割合で、その又1万組に1組が男・女となっているとのことです。
途方もない忙しさの中でしたので、妻は双子で生まれた女の子の方を、3年程里のおばあちゃんに育ててもらい、長男も幼稚園前には一時期市内の若宮町奥所のおばちゃんに預かってもらっていました。この人は、私が演劇サークルで親しくなり、生涯の友となった元倉紡勤務の長田さんのお母さんです。「慎ちゃん、慎ちゃん」と云って長男(現在の社長)をかわいがってくれていました。
私は妻にとっても、幼い子ども達にとっても出来の良くない父親だったろうと思います。子育ても一切妻任せ。子ども達に食事を食べさせたことも、風呂に入れたこともほとんどありません。子ども達の勉強を見てやった記憶もありません。私が遅く帰宅した時には、子どもたちはみんな眠ってしまっているのです。「お父さんは、室本の家で寝て、毎日ここへ通って来とんじゃろう?」と長男が母親に聞いたそうです。
妻の言葉を借りれば、妻はまるで「母子家庭のように」家事を切り盛りし、子ども達の面倒を見ていたと云います。今の息子達が奥さんに協力しながら家庭で子どもに関わっている様子を見て、私は30代、40代の頃、もっと子ども達と接触することが出来なかったのかと、今にして反省しきりです。そしてその分妻に大変苦労をかけたなとしみじみ思っています。
次回へつづく

観音寺市港町から、現在の市役所前に敷地を購入し、本社社屋を移転新築するなど、当時の会社の力量いっぱいの投資をして、正に「清水の舞台から飛び降りる」ような決断を迫られた時期でしたが、高度経済成長の追い風の中で、私は全社の先頭に立って、経営理念も方針もなく、ただ進め進めの毎日でありました。次々と新規の仕事を見つけ出し、中途採用で新部門を増設し、多能者を育てて行かないと事業展開が間に合わない日々でした。日常の仕事の上に、青年団やサークル活動がいっぱい重なって、私は毎晩遅くなり、眠る時間がないくらいの日々でしたが、それでも気持ちは充実していました。

当時、LPガスは重量販売で、各家庭からガス切れの通知があると急いで配達していました。朝食・夕食の支度をする時間帯が1番忙しい時でした。夜、社員が帰宅した後にガス切れの通知があり、留守の多い私に変わって妻が配達したこともよく知っています。お客様がいるのに、配達がおそい、と先方のご主人に叱られた話は、50年経った今になっても話題となる時があります。

私の母は当時60代の前半でしたが、父親亡き後ずっと石炭の現場仕事を続けていて、この時代はまだいくらかは残っている石炭販売の他に練炭や木炭、コークスなどの仕事をしていました。LPガスのような新時代の商品の対応は全く無理でした。時々に子守りをするくらいだったと思います。妻は事務をしながら、長女と3才下の長男を育てていました。その上に食事をはじめ家事一切がかかって来ていました。日中に出来なかった一般事務の仕事や社員の給料計算書などは子どもが寝静まってから夜半にかけて、よくやっていたようです。

長男が3才になった頃、次の子が生まれる事になりました。もうすぐ私も3人の父親になるのかと思っていましたら、ある日妻から「お医者さんから心音が2つ聞こえる」と云われたと告げられました。お腹に双児がいると云うのです。びっくりしました。私達は一度に四児の親となるのです。産まれて来たのは、男児と女児の2人でした。双児は1万組の夫婦に1組の割合で、その又1万組に1組が男・女となっているとのことです。

途方もない忙しさの中でしたので、妻は双子で生まれた女の子の方を、3年程里のおばあちゃんに育ててもらい、長男も幼稚園前には一時期市内の若宮町奥所のおばちゃんに預かってもらっていました。この人は、私が演劇サークルで親しくなり、生涯の友となった元倉紡勤務の長田さんのお母さんです。「慎ちゃん、慎ちゃん」と云って長男(現在の社長)をかわいがってくれていました。

私は妻にとっても、幼い子ども達にとっても出来の良くない父親だったろうと思います。子育ても一切妻任せ。子ども達に食事を食べさせたことも、風呂に入れたこともほとんどありません。子ども達の勉強を見てやった記憶もありません。私が遅く帰宅した時には、子どもたちはみんな眠ってしまっているのです。「お父さんは、室本の家で寝て、毎日ここへ通って来とんじゃろう?」と長男が母親に聞いたそうです。

妻の言葉を借りれば、妻はまるで「母子家庭のように」家事を切り盛りし、子ども達の面倒を見ていたと云います。今の息子達が奥さんに協力しながら家庭で子どもに関わっている様子を見て、私は30代、40代の頃、もっと子ども達と接触することが出来なかったのかと、今にして反省しきりです。そしてその分妻に大変苦労をかけたなとしみじみ思っています。

次回へつづく

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