新着情報

お知らせ

一覧に戻る

第96回 「私の生い立ちと歩み」

2014年11月13日

私は、今年10月9日で、80歳となりました。
朝礼の時、思いがけずも、社員親睦会の原田会長や役員の人達から、大きい胡蝶蘭と三越の箱入りのネクタイをプレゼントされました。後で聞けば、社員(パートさんも含む)の全員がお金を出し合って、用意してくれたとのことで、そのことを、とても嬉しく思いました。
私は感謝の言葉と決意を述べました。「80歳は通過点なので特別の覚悟があるわけではない。しかし健康で今日まで生きてこられたことに感謝している。皆さんの協力を得て、事業も発展してきた。1人1人が自立創造型の社員として成長していってもらいたい。私もペースメーカーの埋込以外に悪いところはどこにもないと大学病院でも証明してくれている。希わくば90歳まで、事業経営に携わって、社員や地域のためにがんばってゆきたい――」と。その日は、銀行やお得意先や、子ども孫たち、友人からもプレゼントをもらい、傘寿はやはり人にとって1つの節目なのかなと、改めて思いました。
これまで私の生い立ちと歩みを語り始めて、私の人生と一心同体のようになってきた会社の現況を書きましたので、私の今日までの支えとなってきてくれた妻のことを少し書いてみたいと思います。
私が25歳(1960年)になったばかりの、室本の宵祭の日(10月24日)に恩師に紹介されて、初めて妻と会って、翌年の1月10日に結婚式をあげました。会場は九十九旅館です。1人300円の会費制で2重折箱に、川鶴の冷酒2合瓶付でした。友人の大西照夫君、山岡馨君、請川冨士夫君等々がお世話役となってくれました。集合写真がいる人は別に40円を集めると云う、当時の新生活運動のモデル的な披露宴でした。なぜ2ヶ月半と云う短期間に式をあげようと云い出したのかと最近妻に聞かれました。「どうしてかなあ。他に見合いしたと云うとったきに、そっちへ行かれたらいかん、と思ったんかいなァー」と答え、顔を見合わせて笑い合ったものでした。
55年前の新婚旅行先は、当時人気のあった宮崎でした。
往路の夜行汽船のデッキで、気分が悪くなったのか、うつむいて立っている妻に、新婚ホヤホヤの私は、介抱しなければ…、でも、どう声を掛けたものか…とためらっていました。その内に妻は客室へ引き返したので、ヤレヤレと思ったことを今も覚えています。
妻の里は、おじいさんは長い会社勤務。父親は学校の先生でした。そんな家庭で育った妻は、朝から夜までバタバタと忙しい石炭販売会社のわが家にとまどったと思いますが、溶け込もうと努力していました。食事・買い物・洗濯等家事一切の上に会社の事務も手伝っていました。1年後に長女が生まれ、その3年後に長男が生まれました。さらに3年後には次男と次女が双子で生まれました。
当時の私は30代の前半でした。燃料革命の波の中で、国内のほとんどの炭坑が閉山となり、祖父の代から続いた石炭販売が出来なくなりましたので、LPガスの販売から配管工事、機器の販売、電気工事、と多角経営の展開中でした。妻の立場や忙しさを理解し、慰めてやる余裕がありませんでした。
次回へつづく

私は、今年10月9日で、80歳となりました。

朝礼の時、思いがけずも、社員親睦会の原田会長や役員の人達から、大きい胡蝶蘭と三越の箱入りのネクタイをプレゼントされました。後で聞けば、社員(パートさんも含む)の全員がお金を出し合って、用意してくれたとのことで、そのことを、とても嬉しく思いました。

私は感謝の言葉と決意を述べました。「80歳は通過点なので特別の覚悟があるわけではない。しかし健康で今日まで生きてこられたことに感謝している。皆さんの協力を得て、事業も発展してきた。1人1人が自立創造型の社員として成長していってもらいたい。私もペースメーカーの埋込以外に悪いところはどこにもないと大学病院でも証明してくれている。希わくば90歳まで、事業経営に携わって、社員や地域のためにがんばってゆきたい――」と。その日は、銀行やお得意先や、子ども孫たち、友人からもプレゼントをもらい、傘寿はやはり人にとって1つの節目なのかなと、改めて思いました。

これまで私の生い立ちと歩みを語り始めて、私の人生と一心同体のようになってきた会社の現況を書きましたので、私の今日までの支えとなってきてくれた妻のことを少し書いてみたいと思います。

私が25歳(1960年)になったばかりの、室本の宵祭の日(10月24日)に恩師に紹介されて、初めて妻と会って、翌年の1月10日に結婚式をあげました。会場は九十九旅館です。1人300円の会費制で2重折箱に、川鶴の冷酒2合瓶付でした。友人の大西照夫君、山岡馨君、請川冨士夫君等々がお世話役となってくれました。集合写真がいる人は別に40円を集めると云う、当時の新生活運動のモデル的な披露宴でした。なぜ2ヶ月半と云う短期間に式をあげようと云い出したのかと最近妻に聞かれました。「どうしてかなあ。他に見合いしたと云うとったきに、そっちへ行かれたらいかん、と思ったんかいなァー」と答え、顔を見合わせて笑い合ったものでした。

55年前の新婚旅行先は、当時人気のあった宮崎でした。

往路の夜行汽船のデッキで、気分が悪くなったのか、うつむいて立っている妻に、新婚ホヤホヤの私は、介抱しなければ…、でも、どう声を掛けたものか…とためらっていました。その内に妻は客室へ引き返したので、ヤレヤレと思ったことを今も覚えています。

妻の里は、おじいさんは長い会社勤務。父親は学校の先生でした。そんな家庭で育った妻は、朝から夜までバタバタと忙しい石炭販売会社のわが家にとまどったと思いますが、溶け込もうと努力していました。食事・買い物・洗濯等家事一切の上に会社の事務も手伝っていました。1年後に長女が生まれ、その3年後に長男が生まれました。さらに3年後には次男と次女が双子で生まれました。

当時の私は30代の前半でした。燃料革命の波の中で、国内のほとんどの炭坑が閉山となり、祖父の代から続いた石炭販売が出来なくなりましたので、LPガスの販売から配管工事、機器の販売、電気工事、と多角経営の展開中でした。妻の立場や忙しさを理解し、慰めてやる余裕がありませんでした。

次回へつづく

ページ上部へ