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第101回 「私の生い立ちと歩み」

2015年04月07日

1945年(昭和20年)3月10日。東京・無差別絨毯爆撃(みな殺し)となりました。アメリカの爆撃機B29が300余機、東京上空で、2時間22分で2,000tの焼夷弾を投下し、一瞬の内に100万人の罹災者と10万人の民間人を焼き殺しました。私と妻は、去る3月6日に東京都江東区北砂の『東京大空襲戦災資料センター』でその時の記録や写真を見学しました。東京下町地区の人口過密地帯は、火災地獄と化し、逃げ惑った母子や老人が蒸し焼きにされ、炭化された黒い塊となってゴロンゴロンと横たわっている様が写真に写っていました。目を覆いたくなるような写真が並んでいました。東京の6割は焼野原になったと書かれていました。
1945年(昭和20年)6月23日。日本本土で唯一の地上戦が沖縄で繰り広げられ、240,383名の死亡となりました。
さらに同8月6日午前8時15分、アメリカ軍は広島に原爆投下。同8月9日午前11時2分には長崎に原爆が投下され、2ヶ所の原爆で30万人以上が一瞬の内に死亡となりました。日本の大都市と沿岸工場は総ナメとなり、昭和20年8月15日の終戦日までの間に、日本人は340万人が殺されました。その反面、日本軍よってアジアの人々は2,000万人が犠牲となりました。戦争は殺し合いですから、日本人が被害者となり、又、加害者にもなっているのです。さらに、ソ連の捕虜となった日本の兵士(民間含む)は60~65万人は厳寒の地シベリヤで強制労働をさせられ、死亡した人も6万人いると云われています。共産主義を標榜するスターリン・ソ連が、多民族の日本人を家畜のように酷使して、シベリヤ鉄道建設などの作業をさせたと云うことも、歴史的検証が大事と思います。
「戦争」の恐ろしさ、悲惨さはその時代を経験していない現代の若者には本当の理解は難しかろうと思いますが、そもそも相手国から、国民の生命や財産を守ろうとするために興した戦争の筈なのに、戦に勝つためにと称して国民の財産と生命を自国軍が奪ってしまうと云う愚かな戦争を繰り広げました。経済に絞って考えても、戦時下となれば何も彼も「戦争に勝つために」と云うことで、商店も中小企業もみんな統制経済となって、配給制度となり、店舗は閉店してゆきました。私のうちの先々代から続いて来た石炭商も「配炭公団四国配炭局高松支局観音寺出張所」と云ういかめしい組織に組み込まれ、店主の母は、その出張所へ同業者と共に勤務するかたわら、山裾のわずかばかりの畑にイモや野菜を植えて子どもたちに手伝いをさせ、食糧難から家族を守る一助としていました。
又、同業の中西さん(現中西設計のお父さん)が田畑1反200円と云われた時代に、当時8万円かけた新造の機帆船も徴用で取られてしまい、自慢のその舟は、半年後には日本近海で敵の機雷によって沈没したとのことです。農家の馬も徴用されたと友人から聞きました。
まさに、平和でなければ人々は安心して働くことは出来ず、中小企業の発展もあり得ないのです。
次回へつづく

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