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エッセイ第25回「多角経営に挑んだ頃 その3」

2017年07月08日

 第二次世界大戦中はもちろん、戦後も一定の期間、私達の各家庭の便所はコンクリート又は瓶等の開放型の便槽でしたし、学校や病院などの公共施設も、全部汲み取り式でした。その糞尿は農作物の貴重な肥料となっていました。専業農家は、その肥料源を獲得するために、農作物を持って行って「下肥(しもごい)」を定期的に取らせてもらったり、官公庁の「下肥」は入札制度になっていたと聞きました。
かつては、非農家から汲み取りをした糞尿を桶に入れ、中蓋をして、積み込んだ手押し車が独特のにおいを放ちつつ街中の道を進んで行く様は、私達にとっては日常的な光景でした。桶で運んだ糞尿は、農地の一隅につくられた「こいだめ池」に貯められ、適時に施肥されるようでした。

 戦後こうした事が数年間続きましたが、やがて「硫安」と呼ばれるアンモニアの白い結晶粉が大量に販売されるようになり、農家へ行き渡りました。農家の人達は、もう糞尿を肥料としなくなりました。各戸へ汲み取りに行かなくなりました。その頃にバキューム車が生まれたのだろうと思います。

 農家の人達の桶取がなくなると、バキューム車で汲み上げた下肥は、一時は「こいだめ池」に入れていましたが、農地に施肥しなくなりますと、下水道設備が未完成の市当局は、各家庭、官公庁等の糞尿処理に困ることになり、市の方針が大転換して「海上投棄」を考えるようになりました。

 1965年(昭和40年)頃は、我が社も、まだ観音寺港沿いに事務所を構えて、激減する石炭販売からLPガスを中心とした機器の販売や配管工事、電気工事等の多角経営を進め始めた頃でした。私は「新もんぐい」と言いますか、新商品の全てに関心があり、ガス器具や家電品以外にも興味をもって、研究していました。

 海上投棄のための船は、積荷5~60tの木造機帆船を改造したものです。船倉の全てに金属板が張られていました。この船にバキューム車が次々と糞尿を投入していきます。満杯したら船は出航し、瀬戸内海の真中あたりを航行しながら、船内に満杯した黄金色の物体を大型ポンプが吸い上げて、海上に吐出していきます。海面に黄色く長い帯が出来ます。航行中の他の船も、魚も、びっくりしたことでしょう。

 実は、この投棄する大型ポンプを我が社が納入したのです。日立製のこの大型ソリッドポンプは、中の羽が洗濯機のようになっていて、財布や雑巾、時には下着やズボンまで混ざって吐出しますが、それによって詰まる事はないと言う折紙つきのものでした。

 機帆船組合の事務所まで出かけて行って、私は熱心にそのポンプの説明をし、納得してもらって、採用されたのです。この糞尿投棄船は、時々に石炭を運んでもらったりしていた我が社と親しい働き者の父子が乗っていました。第一回の航海の前、私はドブドブの黄金色の物体を船体一杯にたたえて出航する船を見送りました。若い息子君が「もう!うちの船でこんなもん運ぶや言うて、いよいよ好かん」とお父さんに向かって言いました。「何を言うとんぞ、積荷の心配はせんでええし、世の為になることしよんじゃが!」と船長は昂然と言っていたことを、半世紀経った今も親子の表情まで覚えています。

 数日後、「ポンプが詰まった!!」と連絡がありました。その朝すぐ、日立の尼崎工場へ連絡したら、昼過ぎには、スーツにネクタイ姿のパリッとした技術者が我が社へ到着しました。その人は早速スーツを脱いで作業用のつなぎ服に着替え、停泊中のその船に乗り込みました。大型のカバーを外して、詰まっているボロ布などを素手で取り除き、復旧しました。私も納入施工業者として同行したのですが、その技師が言われるには、詰まり始めたなと感じた時に操縦者の心理として今までより早く回転させようとするものだが、それは逆で、詰まり始めたら速度を落としてゆっくりと回転させること、そうすれば詰まることなく、ずっと使用していけると言うものでした。何だか交渉ごとの行為によく似たような気がしました。

 ポンプは思いの外早く直りました。その後は長期間修理することはありませんでした。小さな修理を近くの鉄工所に頼んでいるが一週間経っても来てくれない。それに比べて、三宅産業納入のこの大型ポンプは、大阪から、その日の内に来て修理完了とは、本当にありがたいことだと船長も大変喜んで下さいました。

 海上投棄は2~3年続いて、その後中止になりました。半世紀(50年)前の歴史の一コマです。

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