連載

三宅会長「生い立ちと歩み」

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第31回 「私の生い立ちと歩み」

2010年09月06日

(母の心配)

私が母と一緒に石炭の商売をしたのは、10年間くらいでした。その後は、プロパン販売や、設備工事、家電品販売、リフォーム工事などと多角展開となりました。石炭販売オンリーの時代は、「今月は何トン売れた」と数量で成績を確かめていた母も、多角経営になってからは事業がうまく行っているかどうか、なかなかつかめなかった様子です。「うまいこと進んどんな」と良く聞いてきました。高度成長の時代でしたから概して順調に進みましたが、不振の時もありました。私は母に心配をかけさせまいとして、いつも「うまいこといっきょる。もうけよるぞな」と答えて、母の安心した顔をみていました。

本社を市役所近くの現在地に移した時、その敷地の隅に、にわか造りの木造2階建の住宅を新築し、階下に母のくつろげる間をつくりました。時代が進み、さらに20年近くを経て、地続きの用地をわけてもらい、住宅を改築しました。子供たちは2階へ、母は安全な階下の部屋へ住んでもらいました。いつの頃からか母は、観音寺の町なかで住むよりは、室本の方が話し相手も多いし道も安全だと、生まれ育った室本町の住宅で過ごすようになりました。近くに住む長姉が、母の最晩年は、すっと気遣ってお世話をしてくれていたので、私達も姉に甘え安心していました。90歳を越えても母は元気そのもので頭もしっかりしていました。商売のことは何もわからなくなっていましたが、それでも、わが社の慣例の秋の展示会には、仲よしの室本の老婦人をさそって、楽しみにして、いつもやって来ていました。

101才で亡くなる10日くらい前にも、母は井下病院の病床で「展示会はどうじゃったな」と聞いてきました。「おかげで、ようけの人(大勢)が来てくれたがな」と、私は母の遠い耳の近くで大きい声で答えたら「そうな。そらよかったなぁ」とうれしそうに笑いました。商売がうまくいっているかどうか、いつも気にしてくれていたのです。これが、母と私の最後の会話となりました。母は、明治33年(1900年)19世紀最後の年に生れ、21世紀の始まろうとする2週間前の平成12年(2000年)12月14日に旅立ちました。20世紀の初めから終りまでの100年間、正に波瀾万丈の生涯であったと思います。

(母の教訓)

勉強が嫌いであったと云う母が、自ら体得したことで、私に多くの教えを残してくれました。『人は働くために生れてきたんじゃ』『世間に笑われんように』『早起きは三文の得』『わたしらは、お得意先に食べらせてもろとんじゃきにな』『失うた信用は長年かけても、なかなかとり戻せん』『ごの字になったら、いかん』(ブラブラしているなまけ者のことをこの地の方言で“ごくどれ”と云い、少し茶化して「ごの字」と云ったのでしょう)

いづれの言葉も、商人は、時間を大切にして、勤勉一筋に、コツコツ働き通すことで、世間から信用される。そして、お客様を大事に考えた商いを続けることこそが、商人道だと、母が身をもって教えてくれたものでした。この考えは、現在のわが社の「経営理念」にも生かされています。