三宅会長「生い立ちと歩み」
第16回 「私の生い立ちと歩み」
2010年09月01日
町の企業誘致にのって財田町へ工場新設をして、巻取り式のボードンフィルム機を新設しました。無色透明の保護フィルムをはがすと糊がついていて、ガラスやプラスチック、鏡などに張れば、その面が曇らなくなると云うものでした。
日経新聞にその記事が載ったとたん、三宅産業の事務所の一隅に置いていた東洋化工本社の電話は、三日間ひっきりなしの引き合いがあり、国内大小のメーカーをはじめ、香港、シンガポールなどの商社も含めて70社余りから、資料がほしい、見本を送れとその反響の大きさにはびっくりしました。日本貿易振興会(ジェトロ)からも、いろいろな情報が寄せられてきました。
栃木県小山市の電気部品製造の工場を社員ごと買収して、東洋化工小山工場として東京への足場をつくりました。小山工場と本社工場もゴーグルの製造をはじめました。日本を制すために東京へ、そして東京から発信して世界への飛躍を!と夢は大きくふくらんでゆきました。
私は三宅産業内部の多角経営を進めながら、子会社ではチャンネルを切り替えて夢を追い求めていました。しかし、良いことばかりは続きません。ゆけゆけドンドンの落とし穴が待っていたのです。小山工場には当時30名くらいの従業員が、曇らない「ボードン」の水中ゴーグル、防塵ゴーグルを作っていました。
製造が間に合わず、その工場の一部下請けを大阪のレンズメーカーに依頼し、その会社と取引が出来て手形のやりとりとなっていましたが、ある日突然先方の手形の不渡りが発生しました。総額で1億円位となりました。小山の工場長にまかせていたので、全く寝耳に水の出来事でした。私たちは慌てふためいて大阪へ飛び、西成のその工場へ着きました。工場はもう倒産していて、機械はすべて搬出され、その筋の人々に占有されていました。
その場で私は手形の「サルベージ」と称する韓国の人と交渉に入ることとなりました。サルベージとは、沈んだ船を引き上げる作業をすることだと思っていましたが、闇金融などに入っている手形を安く引き上げてきて、それを振出人などにいくらか高く買い取らせて、その差額を儲けとする際どい仕事をしている人たちでした。ミステリー小説を地で行くような相手と対峙(タイジ)して、この件の結果は当社が4,000万くらいの損失で終結しました。
私が現金を持って大阪へ出発しようとした時、事情を知った銀行の次長さんが来て、「そんな危ない相手のところへ社長自身が出向いていかなくても……社員でもやればどうですか」と云われました。私は「会社の存亡がかかっています。即断、即決しなければならない相手だから社長の私が行くのです。危ないところへ社員を行かすことは出来ません」と答えたこと、驚いた次長さんの顔を、今もはっきりと思い出します。経営者として、私も命がけでした。







