連載

三宅会長「生い立ちと歩み」

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第49回 「私の生い立ちと歩み」

2010年12月07日

【二八神社の由来である御神体は親指小指とした。日曜日の午後、世話人一同、近くの神社で祝詞を上げてもらい、お札には祈願済みと、一つ一つ大型朱印をもらった。イベントに唄が欲しい、ということになって、『二八神社の唄』が出来た。みんなで一節づつつくる二十人の合作詞だ。かくて、二八会総会の前日となった。瀬戸大橋を渡り、あるいは空路で、全国各地から恩師、同窓の男女百数十人が参加した。 恩師や、各地代表の、こもごもの挨拶があり、宴たけなわとなる頃、「語り部」により「二八神社の由来」が語られ、やがて、工学博士(横山君)扮する神主が、緋の袴のおばあちゃん巫女を従えて、おごそかに登場した。女子同窓会の手による衣装をつけ、エボシ、シャモジを持った横山君は、堂に入っている。「あの人は神主さんだったの」と隣の人に聞く女性もいた。彼は、この日の神主を勤めるため、ホンモノの宮司(実は私の従弟)から特訓を受け、祝詞もテープで本業そっちのけで練習したのである。二ヶ月前から、「二八神社・神主K」と刷られた大型名刺を、友人間や、大阪のネオン街に配っていたという。

 巫女たちのささげ持つ三方には、『お札』が山積みされている。これはわが二八会の資金源である。祝詞秦上、玉串奉典。爆笑と拍手のうずの中、巫女たちによって各席へお札が運ばれた。シール印刷業のT女史(林さん)の寄贈で、原価タダに近いお札が二千円也になったのだ。「ぼけんように頼んまっせ」「あっちの方にも効いてほしいな」などと、気兼ねない方言のやりとりが聞こえる。明るい笑いの渦の中で、あっという間に収入は二十七万円になった。これで通信費や慶弔費などあと五年間の本部維持費が生まれた。二八神社の霊験はあらたかであった。】

かくて私達の二八会は延々と今日まで続き、同年次は男女の別なく「絆」を深めあっているところです。会員の皆さんからは「お前がやってくれるきんじゃ」と、感謝されて面映いのですが、これは、私の呼びかけにいつもこたえてくれる地元の二八同窓が20~30名いるからです。そして、私の会社の社員さんの応援や手伝いも見逃せないものです。並行して、観音寺一高(本部)同窓会の活動もあります。私の場合、ずっと副会長をしていましたが、3年前から会長に就任して、こちらもかなりの時間をあてています。

観一高の前身の旧制、三豊中学校(創立1900年)と、三豊高等女学校(創立1907年)が、昭和24年の学制改革によって併合となり、現在の名門、観一高となったのですが、創立110周年の歴史を刻んだ今年度までに約39,000人が卒業し、全国で活躍しています。今年は同窓の中から浜田新知事と、篠原議長が誕生しました。白川観音寺市長、横山三豊市長も観一高出身で、現在、観一高同窓会は大いに盛り上がっています。この本部同窓会の活動は、長年月停滞していました。総会に50~70人くらいしか集まっていない時期が続いていましたが、私達が中心となって、十数年前から役員の選出制度を変更し、地域単位の支部幹事と、年次単位の幹事の両方が、縦糸横糸のように作用する組織に改正しました。