三宅会長「生い立ちと歩み」
第29回 「私の生い立ちと歩み」
2010年09月04日
2000年(平成12年)の香川同友会総会で、私は19年間勤めた代表理事を退任し「常任相談役」となりました。
シドニー五輪が開催され、アメリカではブッシュ大統領が就任したこの年、母が101才の誕生日1ヶ月前に逝去しました。明治33年生まれの母の一生は、苦しさに耐え抜き、働き通して家族を守った『日本の母』の一つの典型ではなかったか、と思います。一度結婚に失敗した母は、叔父を頼って朝鮮へ渡りました。手広く商売をしていた叔父の元で、勝気な性格そのままに、テキパキと仕事をこなし家事もしていた母は、叔父の仲人で植林技士の父と結婚して数年後、子供の教育を考えて、父と共に東京で生活することとなりました。
父はトラック運送業、母は下宿屋となって、生活が安定した頃、室本で石炭屋をしていた跡取りの母の兄が急逝したことで、現在の観音寺市室本町の実家へ、父と娘達を連れて帰って来たわけです。その後3女と末っ子で長男の私が生まれましたが、私の生後一年で父は病没しました。石炭屋の商売は、毎日早朝から夕方まで荷馬車の音や仲仕のかけ声などで、活気あふれる一日でした。東京の日赤病院へ入院していた父は、東京の叔父叔母にまかせて、母は商売と子育てで息つく間もなく仕事のとりしきりをする日々でした。
長姉が小学5年生の秋、学校から帰ったら、親戚や近所の人達が大勢家に来て炊事をしていて、奥の間で母が背を向けて寝ていたそうです。『あゝお父さんが死んだんじゃ』と悟り大声で泣いたことを姉から聞きました。「私は足の裏の赤いときから石炭屋をしとるがな」と口ぐせのように云って、知人、友人の多い郷里へ帰り、真黒になって、それこそ天職の石炭屋として働いて来た母ですが、33才で未亡人となり、足の悪いおばあさんと、私達子供4人をかゝえて、これから先どうしたらよいものかと悩んだことでしょう。
もの心ついた私は、たった一人の男の子として、母にもおばあさんにもずいぶん可愛がられました。おばあさんは何をしても許してくれる、大目に見てくれる、心やさしい人でしたが、母は子供たちに対しては不自由をさせまいと、気配りしながら父親がわりの厳しい躾をしていました。「行って参ります」「ただ今帰りました」や、就寝前の「お先に失礼いたします」など、この年になった今でも母の教えは私の習慣となって生きています。







