連載

三宅会長「生い立ちと歩み」

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第25回 「私の生い立ちと歩み」

2010年09月03日

「先月号はカタイことばかり書いていた」と、妻に言われました。何といっても事業中心に生きてきましたが、私の人生をかえりみますと、若い時から仕事とは直接関係のないボランティア的なことや、趣味など「商売とはかかわりのない」ことに費やす時間が20%~30%の状態がずーっと今日まで続いてきていて、今後も止まりそうにありません。青年団、青年会議所、ライオンズクラブ、同窓会、PTA、中小企業家同友会、多くのサークル活動などなどです。主として休日と夜の時間です。

それらの中で、今回は郷土の先輩落語家、桂円枝師匠とのかかわりについて書いてみたいと思います。桂円枝師匠(香川伸雄氏)は、私と同じ高室村の出身で、3才違いの昭和6年生まれの姉と小学校は同級でした。高校生の頃は確か陸上部や演劇部でおられたように思います。私とは部落が近く、時々声をかけてもらえる程度の間柄でした。

 高校卒業後15年間くらいは、お互いに何の連絡もなかったのですが、香川伸雄さんが東京の落語界で「二ツ目」になって、頑張っているらしいとの噂を聞いて何年かたって、ついに「真打ち」となり、大平代議士(後の首相)が東京で後援会をつくったとも聞き及びました。この機会に彼を古里、観音寺へ呼ぼうではないかと云うことになりました。私達は「桂円枝を聞く会」をつくりました。私は、どうやれば成功するか、どんな人達の力を借りればいいか考えました。

成功に至る道筋を画いて、それに向って実行してゆくことが楽しみでした。円枝さんを喜ばせてあげたい、との思いでいっぱいでした。円枝師匠と連絡をとりながら、毎日ワクワクした気持で組織づくりをしてゆきました。高室出身の経営者の集り「たかむろ会」や、高室小学校、三豊中学校(観一高)の同級生、などに働きかけて、運動の中心となってもらいました。当時の商工会議所の吉良会頭や、恩師の滝本先生にもお力添えを頂きました。運動はしだいに大きい波となって熱をおびて行きました。公演当日の市民会館大ホールは、超満席で大成功でした。多すぎる花輪の置き場所について、消防からクレームが来る始末でした。

円枝さんの他、師匠である大看板の桂枝太郎師匠、漫才の三球・照代、端唄の檜山さくら、曲芸のボンボンブラザーズ3人、前座の人等々の一行でした。その後何回となく、円枝師匠を中心に公演会を持ってきていますが、私はよろこんで事務局を努めてきています。

高室西下にあった師匠の生家は今はなく、帰郷された際は、私共の家に「桂の間」なる部屋をつくっていて、ご自由に、いつでもどうぞと申し上げてあります。こんなお付き合いの中で、国語に関しては、大学の講師も勤めたこの噺家から、「ことば遊び」なども教わりました。「サンサンだより」発行に際して、政治や社会現象を風刺した師匠の狂歌を載せて頂くこととなりました。

謙虚な師匠が「ざれ歌」と云われるこの狂歌は、私など文学・芸術に浅いものが真似ようとしても決してその域に至りません。表面的な面白さだけでなく、二重・三重に深い奥があることを知れば、さらに興味が湧いて参ります。歌の性質上、「鮮度」が要求されます。作られたものが送られてきて読者のお目に止まるまでに1ヶ月もかかる場合があって、残念ながら没にする時もあります。

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