三宅会長「生い立ちと歩み」
第21回 「私の生い立ちと歩み」
2010年09月03日
(グリーンライフ設立 東京へ)
東京蔵前の大通りに面した50坪ほどの店舗を借りて、商社や関係者・友人などをお招きして㈱グリーンライフのオープンセレモニーを行いました。
この会社は㈱シーアイ企画の子会社としたので、三宅産業から云えば“孫会社”になります。会社のメンバーは大手商社の部長を退職した人を専務として、女性デザイナーや営業担当、設営担当など数名のメンバーで発足しました。私が所属している中小企業家同友会の東京のA氏も株主となりました。大東京でこのような店舗がうまくゆくか、アンテナショップでもあり期待と不安が交叉していました。
浅草ビューホテル・成田全日空ホテル・ホテルフジタなどへ、800万~1千万程度の契約が出来るなど、まずまずの出発でしたが、バブル後の景気後退は予想以上に厳しくなりました。その上に本社でいる私は、東洋化工の仕事を兼ねて1ヶ月に1回くらいの上京でもあり、私の経営に対する理念が東京の人達には伝わりにくかったと思います。東京の人達は、関西に比べてカッコよく課題を整理しますが、実行が伴っていない事まで出来たように報告を出して来て、後からガッカリすると云うことが続きました。2年経過後は赤字続きとなりました。
(東京より撤退)
平成4年に全国の住宅地が平均5.6%下落したと公表されました。下落は17年ぶりのことで、「資産デフレ」の始まりとなりました。まだまだ家賃も下落すると思い交渉したところ、「いくらにしたら良いか云ってくれ」と家主から云われたと聞き、私は松下幸之助さんが「交渉ごとは自分でもびっくりするくらいのことをまず云ってみるべきだ」と書かれていたことを思い出し、(これまで50万円支払っていたのですが)「20万円にして欲しい」と連絡したところ、すんなりと承知してくれてこちらがびっくりしました。しかし、それでも経営は厳しく、私も本業の三宅産業の仕事や東洋化工の業務にも忙殺されて、東京のこのグリーンライフへの時間も取りにくくなるなど、ついに撤退を決意することとなりました。
経営者として、将来の展望を画き社員とも夢を語ったはずでしたが、前進すればますます傷口が大きくなることに気付き、名を捨てて実をとらねばと考えたわけです。出店するときは、みんな意気が上がるものですが、撤退は、閉店よりもはるかに大きいエネルギーとお金がかかることだと思い知らされました。一番に雇用している社員のことを考えなければなりません。幸い東京のA氏へ経営権を譲ることとなり、店はそのまま営業を続けることになったので、社員の雇用は守ることが出来てホッとしました。結果として4,000万円程の損失となりました。これまで多角経営の先頭に立って、進め進めと事業展開して一応成功を続けてきた私にとって、経営上のはじめての挫折となり、反省に加えて学ぶべきことが多く出来ました。
この頃(平成6~7年)、本体の三宅産業の事業は順調にのびて、27~28億くらいの売上となっていました。







