三宅会長「生い立ちと歩み」
第17回 「私の生い立ちと歩み」
2010年09月01日
その後、ボードン・シートとは別に、ボードン技術から枝分かれした「顕化フィルム」の製造に移ってゆきました。財田工場に億の機械を設置しました。このフィルムは液晶パネルに張る偏光フィルムに接着させるものです。はじめの頃は少量でしたが、パソコン、液晶テレビの市場成長と共にフィルムも急激に伸びてゆきました。
私は、三宅産業ではほとんどの株式を所有するオーナーでしたが、東洋化工では前記のように、私の話を信じ興味をもった友人・知人たちが、金を持ち寄ってつくった会社です。取締役会で選出されて社長になっているという、文字通り会社本来の姿になって、私が経営していたわけです。
ボードンシートと顕化フィルム、水中ゴーグルなど原材料と製品づくりで、各工場や下請は、フル回転していました。こうした中で、これらの技術をわが社ひとりで研究を深め、支えてゆくには限度があります。京都大学の生産開発科学研究所(京大の生研)へ持ち込んで共同開発してゆくこととなりました。
東洋化工の取引先は、トーソー、ソニーケミカル、セキスイ化学、日本化薬、住友化学などなど、国内の超大手化学関係企業や商社から、海外の商社までに拡がってゆきました。生研との共同開発の一方で、自社の研究室を充実したいという思いが強く、会社の役員会で生研から人材を譲り受けられないものか、と話題になりました。私は「長者のビンさんも云うてみなわからん」と、早速に生研のO研究員を口説き落としました。私は彼に云いました。「天下の松下電気も、セキスイもはじめは3~4名で出発している。その研究にかける創意と情熱が今日の姿になっている。わが社も正に小企業だが、これから全世界に向かってはばたいてゆこうとしている。この私達のベンチャー企業に入社して世界の人々の反応を直に感じつつ、一緒にやってゆきませんか」と。
京都での20年間、家庭を築いてこられた奥さんを説得して、彼からは3日後にOKの返事をもらいました。この上は生研を運営している京大の先生の了承を頂かなければなりません。京大へ出向いた私は、3人の教授の前でO研究員のわが社への転籍をお願いしました。
生研専務職の大門先生は、はじめの世間話の中で、「中小企業家同友会という団体は素晴らしい会だ。理念や学ぶ姿勢がすばらしい。三宅社長もあの会に入って勉強してはどうか」と云われ、私がその会の香川の会長であることを知ると大変喜ばれて、交渉も快調に進みました。「本人がその気になっているのなら、籍は移すが生研から派遣している気持ちでO研究員を御社へ送り出しましょう。」と云うことになりました。O氏を迎えたわが社の研究データーは、町工場のものではなく、大手企業をうなずかせる洗練されたものとなり、研究の成果と共に会社の格が上昇していったものです。







