連載

三宅会長「生い立ちと歩み」

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第14回 「私の生い立ちと歩み」

2010年09月01日

  労組は、一般社員の人々の思いと違った方向に進んで、だんだん脱会者が増えてゆき、10ヵ月後に自主解散となりました。その後は「親睦会」をつくり、会長は毎年持ち回りで社長が委嘱し、年代別に選出された委員によって社員行事やレクレーション等の計画実行がなされています。22期の出来事で当時の売上高は8億ぐらいでしたが、この一年間の逸失売上1億、粗利二千万の損失となり、何人かが退社してゆきました。

物質的に失ったものは大きかったのですが、そのことによって、会社経営の上での物の見方・考え方や制度が大きく変わっていったことは苦しい闘いでしたが、結果的には労使双方にとっての結びつきを強め、体質改善へと向かわせましたので、得たものは大きかったと思います。

「経営者の強さはどこから生まれるか」というテーマで討議していた時、「いかに多くの修羅場をくぐりぬけてきたか」だと結論づいたことがあります。考えてみれば、わが社にとって唯一の主力商品「石炭」が市場から消えた時と、労組結成の二つは、若い経営者の私にとって大きい修羅場であったと思います。

少し話を戻しますが、悪戦苦闘の日々を過ごしていた私は家庭をかえりみることが少なく、ほとんど妻にまかせきりでした。4人の子供達が小学生の頃は、学校参観日にすら行ったことがなかったのです。

ある日、どうしても今日は父親参観日だから、東小学校へ行ってもらわないと困ると妻に言われ、しぶしぶ時間のやりくりをしました。しかし、少し到着が遅れてしまって、子供達も父兄もみんな教室へ入ってしまっています。私は困ってしまいました。1番目の長女は小学6年生ですが、2番目に生まれた長男が3ツ下だとは思いつつ、2.5才くらい下だったかなと考えたりしている内に、組だけでなく学年もわからなくなりました。職員室で教頭先生の近くにある電話を借りて、妻に「慎二は何組や」と聞きました。「さくら組です」と妻は云います。聞き返しても同じようにさくら組しか答えないのです。子供の学年を聞く親があるだろうかと思いながら、ついに私は「何年の……や?」と聞きました。教頭先生が黙って笑っておられたことが、30年後の今も赤面の思い出となっております。

妻や子供達にすまないと今にして思うのですが、当時は本当に寸暇をさいて仕事に打ち込み、夜はお得意先まわりの他に、サークル活動や青年団OB会などなど、子供達の勉強を見てやることなど何もなく、暮れていく日々でした。

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