三宅会長「生い立ちと歩み」
第10回 「私の生い立ちと歩み」
2010年09月01日
〈市青協会長となる〉
やがて私は市青年団体連絡協議会長に推されて就任しました。観音寺市だけで団員数は2,000名を超えました。事務局長は、観一高以来の学友の大西照雄君(後年、市議会議長となる)と、事務局次長は粟井の山岡馨君をお願いしました。
青年団運動がきっかけで、山岡君とも生涯の友となりましたし、高校時代からお付き合いのあった木之郷の請川冨士夫君とも改めて強い絆で結ばれることとなりました。
青年団運動では溢れるほどたくさんの思い出があるのですが、忘れられないことの一つは、市青年団の9町村対抗春季運動会でのハプニングです。伊吹青年団が100m競争の点呼に遅れて走れなくなり、審判に不満をとなえ、テントをたたんで一同が引きあげてしまったのです。会長の私と、事務局長の大西君が伊吹丸に乗って説得にゆき一泊しました。公民館長の仲立ちもあり、幸い問題解決となったのですが、その折、大西君が生水を飲んで下痢をおこし、回復までに半年間もかかりました。そんな訳で、私は事務局次長の山岡君と行動を共にすることが多くなりました。
市青協を代表して県青協の役員会などに出席して議論し、余韻さめやらぬ帰路は、屋台などでコップ酒を重ねながら、議論の続きをする中で深夜に帰宅するという具合でした。今一つは、当時の市長が入札情報の問題で有罪判決を受けた時、市婦人会と青年団が協力して市長に辞職勧告を決議し、その文章を市役所まで持参し提出したこともあります。
若い純粋な時代だからこそ出来たと思えることでした。
〈私の結婚〉
25歳の1月に結婚しました。恩師の宮武志貴一先生から紹介をうけて仁尾の女性と見合いし、3ヵ月後に挙式となりました。「三宅君は熱烈な恋愛結婚をするのかと思っていた」と何人かの友人に云われましたが、私は「出合いが問題ではない」と反論しました。
私は結婚式の簡素化、虚礼廃止の運動を進めていた当事者ですから、前記の大西、山岡、請川君等が発起人となって、一人300円の会費(集合写真は別に40円)制となりました。
親戚・ご近所・同級生・青年団・サークルの友人・取引先・会社の人々などなど、実に多くの人々が、九十九旅館(岩田豊君経営)へ集まって祝ってくれました。
当時、日(ニッ)青(セイ)協(キョウ)会長であった亡・大西末広氏(後に県議会議長・現高松市長の父君)が来賓の一人として挨拶「三宅君は青年団運動に新風を吹き込んだ」と、持ち上げてくれたことや、女性先輩の奥平さんと私が合唱したこと、サークルの女性後輩大谷さんが槍を持って踊ってくれたことなど覚えています。
女手一つで困っていた母も私たちの結婚で、いくらか安心してくれただろうかとの思いがありました。







