三宅会長「生い立ちと歩み」
第1回 「私の生い立ちと歩み」
2009年11月10日
私は1934年(昭和9年)観音寺市室本町で、三宅家の長男として生まれました。
父は私の生後1年くらいたって36歳で病没しました。明治の初めから続いてきたと云われる石炭屋を家業として、母を中心に足の悪い祖母と3人の姉達の家族でした。
毎朝、暗いうちから荷車の音や馬のいななきを聞き、活気の溢れる荷役の人々の声で目覚める日々でした。
私の家には「若い衆」と呼ばれる若い男性2~3人と、私のお守(も)り兼お手伝いの「おきんさん」がそれぞれ住み込みで働いていました。朝食は、それらの大勢が一緒になって毎朝4時頃から板の間で食べていました。家中が早寝早起きのサイクルだったので、高室国民学校(小学校)の低学年の頃は毎朝5時半頃には4キロ離れた学校へ着いていて、小使いさんを驚かせていたものです。
家業の石炭は、九州の若松や宇部等から機帆船に積んで来たものを、一旦陸揚げし貯炭しておき、瓦屋や浴場、お菓子屋、製紙工場などへ販売していました。母は仲仕(なかせ)の手配や、注文とり集金など男社会の中で文字通り「まっ黒」になって働いていました。「女だからと馬鹿にされる」と泣いていた事を覚えています。私は早く母を楽にさせてあげたいとの思いが子供ながらに芽生えていっていました。
国民学校1年生の冬、12月8日第二次世界大戦が勃発しました。忘れもしません、集団登校のため部落はずれの「西の池」の前に集まった時、私は3年生の忠重さんに「どこの戦争や?」と聞きますと、彼はむずかしい顔をして「日・米英戦争じゃのう」と教えてくれました。
ハワイの真珠湾攻撃には特殊潜航艇に乗ったままで体当たりして敵艦を沈めたという9人の少年兵のことが「九軍神」とたたえられ、学校で教えられる歌となって全国で広まっていきました。学校での歌はほとんど軍歌となりました。初めの頃は勝っていたようですが次第に戦局は厳しくなりました。友達のお父さんや兄さんが、どんどん兵隊にとられるようになりました。学校の先生までが召集されました。来る日も来る日も軍歌の歌声と共に、日の丸の旗を振りながら国鉄駅まで「出征兵士」を送りバンザイ、バンザイと連呼していました。番頭の香川さんも出征しました。二~三年後にはだんだんと戦局が悪化しているらしく、家業の石炭販売も「統制」となり個人で商売は出来なくなりました。母は「配炭公団、四国配炭局、高松支局、観音寺出張所」に勤務をはじめました。







