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	<title>三宅産業株式会社</title>
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		<title>第29回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Sat, 04 Sep 2010 01:06:34 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[三宅会長「生い立ちと歩み」]]></category>

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		<description><![CDATA[2000年(平成12年)の香川同友会総会で、私は19年間勤めた代表理事を退任し「常任相談役」となりました。
シドニー五輪が開催され、アメリカではブッシュ大統領が就任したこの年、母が101才の誕生日１ヶ月前に逝去しました。 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>2000年(平成12年)の香川同友会総会で、私は19年間勤めた代表理事を退任し「常任相談役」となりました。</p>
<p>シドニー五輪が開催され、アメリカではブッシュ大統領が就任したこの年、母が101才の誕生日１ヶ月前に逝去しました。明治33年生まれの母の一生は、苦しさに耐え抜き、働き通して家族を守った『日本の母』の一つの典型ではなかったか、と思います。一度結婚に失敗した母は、叔父を頼って朝鮮へ渡りました。手広く商売をしていた叔父の元で、勝気な性格そのままに、テキパキと仕事をこなし家事もしていた母は、叔父の仲人で植林技士の父と結婚して数年後、子供の教育を考えて、父と共に東京で生活することとなりました。</p>
<p>父はトラック運送業、母は下宿屋となって、生活が安定した頃、室本で石炭屋をしていた跡取りの母の兄が急逝したことで、現在の観音寺市室本町の実家へ、父と娘達を連れて帰って来たわけです。その後３女と末っ子で長男の私が生まれましたが、私の生後一年で父は病没しました。石炭屋の商売は、毎日早朝から夕方まで荷馬車の音や仲仕のかけ声などで、活気あふれる一日でした。東京の日赤病院へ入院していた父は、東京の叔父叔母にまかせて、母は商売と子育てで息つく間もなく仕事のとりしきりをする日々でした。</p>
<p>長姉が小学５年生の秋、学校から帰ったら、親戚や近所の人達が大勢家に来て炊事をしていて、奥の間で母が背を向けて寝ていたそうです。『あゝお父さんが死んだんじゃ』と悟り大声で泣いたことを姉から聞きました。「私は足の裏の赤いときから石炭屋をしとるがな」と口ぐせのように云って、知人、友人の多い郷里へ帰り、真黒になって、それこそ天職の石炭屋として働いて来た母ですが、33才で未亡人となり、足の悪いおばあさんと、私達子供4人をかゝえて、これから先どうしたらよいものかと悩んだことでしょう。</p>
<p>もの心ついた私は、たった一人の男の子として、母にもおばあさんにもずいぶん可愛がられました。おばあさんは何をしても許してくれる、大目に見てくれる、心やさしい人でしたが、母は子供たちに対しては不自由をさせまいと、気配りしながら父親がわりの厳しい躾をしていました。「行って参ります」「ただ今帰りました」や、就寝前の「お先に失礼いたします」など、この年になった今でも母の教えは私の習慣となって生きています。</p>
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		<title>第28回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Sat, 04 Sep 2010 01:04:16 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[三宅会長「生い立ちと歩み」]]></category>

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		<description><![CDATA[（ペースメーカー植込）
忘れもしません。それは、平成１１年(１９９９年)５月１３日の深夜のことでした。頭が、めり込みそうな不快感を覚えて、目がさめました。口の中はカラカラです。虫の息と云うのでしょうか、ささやき声しか出な [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（ペースメーカー植込）</p>
<p>忘れもしません。それは、平成１１年(１９９９年)５月１３日の深夜のことでした。頭が、めり込みそうな不快感を覚えて、目がさめました。口の中はカラカラです。虫の息と云うのでしょうか、ささやき声しか出ないのです。かつて体験したことのない強烈な異状を体が発信していました。足の裏にべっとりと汗をかいていました。妻が気付き、当時おつきあいのあった東京の内科医のＹ女史を思い出して、電話をかけましたところ、「それは心臓障害です。すぐ救急病院へ行きなさい」と指示してくれました。</p>
<p>『経営者というものは、どんな時でも、親身になって相談にのってもらえる、弁護士、経理士、医者の３人をもっているべきだ。』と云われていますが、私は、そのすべてが満たされていると感謝しながら、妻の運転する車で三豊総合病院へ運ばれました。心電図を診た当番医は、「心臓の電線が全部切れています。完全房室ブロックです」「脈拍30……まだ若いけど、ペースメーカーを入れないといけません」と云いました。いつ頃気づいたのか？数時間おくれていたら、ダメになっていたかも知れない……などと云われると、運がよかったと思うしかありません。</p>
<p>これまで、健康診断は定期的に受けてきました。血圧も、コレステロールも、糖尿も、肝機能も、数値はいつもＯＫでした。その自分が、心臓病になるなどとは、夢にも思ってみないことでした。何が原因か考えてみれば、ここ2ヶ月間は、グループ会社の決算と、高校全体の同窓会、年次の同窓会、国民学校の同窓会、桂円枝公演会などをとりしきり、中小企業家同友会総会を目前にして、睡眠不足が続いていました。休日がとれないままに疲労が蓄積されてきたように思います。心臓には、ストレスと睡眠不足が敵だとは後から学びました。</p>
<p>さて、その日夕刻になって、ペースメーカーが私の左の鎖骨下に植込まれました。ガス・ライター大で、そこからのびたリード線が心臓の筋肉に接触されています。ペースメーカーの植込みをしている人口は、全国で今、40万余人とのこと。私の周辺でも、何人かの人々がつけていて、みんな手術後は、以前よりはるかに元気でいるようです。コンピューター内蔵物体が自分の体内に植込されていて中心部で活動しているとは乙な気持ちです。</p>
<p>手術後渡された説明書によると、“磁気によって、内臓コンピューターが狂い失神する”とあります。携帯電話は、22cm以上離すこと。磁気マットはダメ。車のボンネット内や、熔接の火花の近く、高圧変電装置なども、近寄らないなど、など…とあります。かくて私は「身体障害者一級」の手帖を交付されました。命びろいをしたと共に、新たな不安も抱え込むこととなりました。このペースメーカーが狂ったり、動かなくなったら、私の生命はどうなるのだろう。もう一ヶ、予備のペースメーカーを持ち歩いたらどうか、と医師に疑問を投げかけてみましたが、納得のゆく回答は得られませんでした。</p>
<p>私にとってペースメーカー植込後の入院２ヶ月は、出会い、運命、生と死について深く考えさせられた日々でした。多くのお得意先と社員をかかえたこの会社を、何としても守ってゆかなければなりません。私は病床から、退任届を各所へ送りました。香川中小企業家同友会の代表理事や、香川インテリア協議会の会長等々です。その後同友会では「常任相談役」となって、今日まで続いています。ペースメーカーは、９年後の昨秋、入替手術を行いました。</p>
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		<title>第27回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Sat, 04 Sep 2010 00:59:44 +0000</pubDate>
		<dc:creator>miyakesan</dc:creator>
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		<description><![CDATA[（高松営業所）
　企業も成熟期となり、やっと長期計画をつくることが出来ました。将来を展望すると、香川を制するためには、高松へ拠点をつくらねばなりません。平成3年(36期)に、念願であった高松営業所を設置しました。西春日町 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（高松営業所）</p>
<p>　企業も成熟期となり、やっと長期計画をつくることが出来ました。将来を展望すると、香川を制するためには、高松へ拠点をつくらねばなりません。平成3年(36期)に、念願であった高松営業所を設置しました。西春日町の金倉仏光堂の前に150坪の土地を購入し、建物もすべて自社物件としました。その地域に根づく企業として、お客様に安心して頂こうと考えました。今後、長いおつきあいをして頂きたいとの熱い想いを形にして、2階だての展示場、事務所をつくりました。</p>
<p>設備部門を中心とした三宅産業と、子会社の人工樹木・フラワーのシーアイ企画が入って営業をはじめました。私は、昭和56年(1981年)から平成12年(2000年)に至る19年間、香川同友会の代表理事を務めましたので、高松へは頻繁に出かけていました。日中は、高松営業所を中心に仕事をして、夜は同友会の会合に出席して勉強すると云うパターンが続きました。</p>
<p> </p>
<p>（中小企業家同友会）</p>
<p>　高校生時代、青年団時代そして、この同友会が私を育ててくれました。この同友会へ入会してなかったら、今日の自分はなかったのではないかとさえ思います。同友会で学んだことで、私のものの見方、考え方が変わってゆきました。</p>
<p>同友会は自己革新の会と云われます。学ぶことによって自分の行動を変え、会社を変えてゆこうとしています。「よい会社をつくろう」「よい経営者になろう」「よい経営環境をつくろう」と云う三つの目的を、自主的に民主的に連帯の心で追求してゆこうとする同友会は、政治的・宗教的に中立で、入会して気付いたことは、ボスをつくらない。会員はみんな対等平等でいつも民主的な雰囲気でした。他の異業種の経営者の体験発表から学ぶことを中心として、ノウハウでなく、ものの本質をつかもうと呼びかけています。共同求人、社員教育、経営指針書を3本の柱として運動を進めて来ました。</p>
<p>お陰で大学新卒の採用も定期的に出来るようになりました。経営者のパートナーとしての社員を育てることがやっと出来るようになりました。経営者は、時代がどんなに苦しくても経営の全責任をもって、社員が生きがい働きがいを持てる職場づくりにつとめなければなりません。ホテルで経営指針書の発表会を行い、「人間尊重の経営」を進めるための、部門別・月別の計画や行動目標を定めて、新年度の出発をしました。その後、香川同友会の総会を目前にひかえ、私がお世話役の同窓会なども重なって多忙を極めていたある日、私は突然に「心臓の電線が全部切れて」夜中に緊急入院となりました。</p>
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		<title>第26回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Sat, 04 Sep 2010 00:57:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>miyakesan</dc:creator>
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		<description><![CDATA[円枝師匠とのことは、まだまだ書きつくせませんが、私が１５年前に、京都の同人誌（飛翔）に投稿したものを転載しますのでお読みください。
円枝師匠と私と
　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>円枝師匠とのことは、まだまだ書きつくせませんが、私が１５年前に、京都の同人誌（飛翔）に投稿したものを転載しますのでお読みください。</p>
<p><strong>円枝師匠と私と</strong></p>
<p>　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　                                                                      三宅　昭二</p>
<p>　東京へ出て時間があると、新宿・末広亭へ出かけることがある。おめあては、落語の桂円枝師匠である。彼がトリをやっている時もある。真打昇進後25年。きくたびに円熟したなあと思い、わがことのように、うれしくなってくる。検察庁勤務から一転して落語界にはいった彼が、郷土観音寺で、はじめての公演を行ったのは、もう20年もまえになろうか。昨日のことのように思い出される。</p>
<p>　真打祝いと、高校の先輩でもある彼に、よろこんでもらおうとの気持で、公演計画をねりあげた私と仲間は、おもいつくかぎりの個人と団体を組織して、後援会をつくり、参加をよびかけた。当日は、1,600席の市民会館が満ぱいとなり、「真打落語家・桂円枝」は、郷土の人々に好印象を与え多くのファンをつくった｡次の日は、円枝とその師匠桂枝太郎を囲んで、世話人の打上げ会となった。</p>
<p>「よかった、よかった」と30余名が、酒をくみかわした。円枝後援会がなければ、けっして一堂に会することのなかった人達。その一人一人に円枝師匠は酒をついでまわって、律儀にお礼を言っている。噺家らしからぬ端正な面立ち、謙虚で礼儀正しい彼が、時には、ころげまわって笑ったりしている。よほどうれしかったのだろう。最後に私の前まできた彼は、急にあらたまって、「三宅さん、このたびは……」と言いだすと、あとの言葉がつづかなくなり、「……下へいって泣いてきます」と階段をかけおりていってしまった。</p>
<p>　勘当同然に家をでて、落語の世界に入った彼は、桂三木助の門下にはいり、古典落語の修業をつづけた後、桂枝太郎門下に移り、新作落語をつづけた。そして、ついに真打となって古里に錦をかざった。感無量のものがあっただろう。</p>
<p>　「古里に、晴の姿や、風薫る」</p>
<p>　恩師の滝本先生が詠まれた歌に、すべての想いがこめられている。その後何回となく地元公演会がくりかえされているが、私は後援会事務局長として、師匠との深いかかわりは、生涯のものとなってしまった。　下町の落語を国立劇場でやることに異をとなえる清貧の師匠を想い、以来私は、『円枝公演』の機会づくりを常に考えながら、なかなかうまく実行できないでいる。　</p>
<p>（1994年2月）</p>
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		<title>第25回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 01:15:50 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[「先月号はカタイことばかり書いていた」と、妻に言われました。何といっても事業中心に生きてきましたが、私の人生をかえりみますと、若い時から仕事とは直接関係のないボランティア的なことや、趣味など「商売とはかかわりのない」こと [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>「先月号はカタイことばかり書いていた」と、妻に言われました。何といっても事業中心に生きてきましたが、私の人生をかえりみますと、若い時から仕事とは直接関係のないボランティア的なことや、趣味など「商売とはかかわりのない」ことに費やす時間が２０％～30％の状態がずーっと今日まで続いてきていて、今後も止まりそうにありません。青年団、青年会議所、ライオンズクラブ、同窓会、ＰＴＡ、中小企業家同友会、多くのサークル活動などなどです。主として休日と夜の時間です。</p>
<p>それらの中で、今回は郷土の先輩落語家、桂円枝師匠とのかかわりについて書いてみたいと思います。桂円枝師匠（香川伸雄氏）は、私と同じ高室村の出身で、３才違いの昭和６年生まれの姉と小学校は同級でした。高校生の頃は確か陸上部や演劇部でおられたように思います。私とは部落が近く、時々声をかけてもらえる程度の間柄でした。</p>
<p>　高校卒業後15年間くらいは、お互いに何の連絡もなかったのですが、香川伸雄さんが東京の落語界で「二ツ目」になって、頑張っているらしいとの噂を聞いて何年かたって、ついに「真打ち」となり、大平代議士（後の首相）が東京で後援会をつくったとも聞き及びました。この機会に彼を古里、観音寺へ呼ぼうではないかと云うことになりました。私達は「桂円枝を聞く会」をつくりました。私は、どうやれば成功するか、どんな人達の力を借りればいいか考えました。</p>
<p>成功に至る道筋を画いて、それに向って実行してゆくことが楽しみでした。円枝さんを喜ばせてあげたい、との思いでいっぱいでした。円枝師匠と連絡をとりながら、毎日ワクワクした気持で組織づくりをしてゆきました。高室出身の経営者の集り「たかむろ会」や、高室小学校、三豊中学校（観一高）の同級生、などに働きかけて、運動の中心となってもらいました。当時の商工会議所の吉良会頭や、恩師の滝本先生にもお力添えを頂きました。運動はしだいに大きい波となって熱をおびて行きました。公演当日の市民会館大ホールは、超満席で大成功でした。多すぎる花輪の置き場所について、消防からクレームが来る始末でした。</p>
<p>円枝さんの他、師匠である大看板の桂枝太郎師匠、漫才の三球・照代、端唄の檜山さくら、曲芸のボンボンブラザーズ3人、前座の人等々の一行でした。その後何回となく、円枝師匠を中心に公演会を持ってきていますが、私はよろこんで事務局を努めてきています。</p>
<p>高室西下にあった師匠の生家は今はなく、帰郷された際は、私共の家に「桂の間」なる部屋をつくっていて、ご自由に、いつでもどうぞと申し上げてあります。こんなお付き合いの中で、国語に関しては、大学の講師も勤めたこの噺家から、「ことば遊び」なども教わりました。「サンサンだより」発行に際して、政治や社会現象を風刺した師匠の狂歌を載せて頂くこととなりました。</p>
<p>謙虚な師匠が「ざれ歌」と云われるこの狂歌は、私など文学・芸術に浅いものが真似ようとしても決してその域に至りません。表面的な面白さだけでなく、二重・三重に深い奥があることを知れば、さらに興味が湧いて参ります。歌の性質上、「鮮度」が要求されます。作られたものが送られてきて読者のお目に止まるまでに1ヶ月もかかる場合があって、残念ながら没にする時もあります。</p>
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		<title>第24回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 01:13:47 +0000</pubDate>
		<dc:creator>miyakesan</dc:creator>
				<category><![CDATA[三宅会長「生い立ちと歩み」]]></category>

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		<description><![CDATA[（経営者の夢と責任）
　こうした全社あげての努力を積み重ねて、数年がかりでようやくに不充分ながら“経営指針書”が出来上がったのです。指針書づくりは、単なる手段ではなく、私にとって「何のために会社経営をするのか」を問い直し [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（経営者の夢と責任）</p>
<p>　こうした全社あげての努力を積み重ねて、数年がかりでようやくに不充分ながら“経営指針書”が出来上がったのです。指針書づくりは、単なる手段ではなく、私にとって「何のために会社経営をするのか」を問い直し、悩みや迷いを解くカギともなりました。</p>
<p>「よい会社をつくろう」「よい経営者になろう」とのよびかけは簡単ですが、実現させるのは遠い道のりです。社員みんなが、働きがいをもって輝いている会社。ハキハキとして礼儀正しく、お客様を第一に考え、地域社会からも支持と共感を持たれ続けている会社。そして、会社の中味は、目標利益が達成されて、時代の変化に対応しつつ、たえず成長をつづけている会社。経営者はワンマンにならず、社員をパートナーと考え社員の持ち味を生かせるお互いに強く信頼し合える会社でありたい。そんな会社づくりを夢見ていました。</p>
<p>　経営者は、どんなに経営環境が厳しくても、社員やその家族を守り、会社を継続・発展してゆかなければなりません。中小企業家同友会で学んだはずの私の前任代表理事の中の二人は退任後、倒産に至ったと聞きました。考えてみればその人達からは、自分の会社づくりや社員との関係・経営状況などの話を聞いたことがありませんでした。</p>
<p>（人間尊重の経営をめざして）</p>
<p>私は、自らの経営を人前で語ることが出来るような会社づくりに努力してゆこうと、ひそかに決意しました。人間尊重と云うと、やさしさ・いたわり合い・傷をなめ合う響きがありますが、経営者も社員も対等の人間として厳しく問い直し、権利と義務を明確にし経営発展のためにお互いに努力してゆこうとするものだと考えました。</p>
<p>立てた目標は、一番に『就業規則』の見直しでした。それまでは、社会労務士さんが一般的なモデルとして作っていたものがあり、空白欄に社名だけ入れてパスしたと云う古いもので、時代の変化に対応出来ていませんでした。それらの点を社員と共に見直し、改正してゆきました。</p>
<p>第2は、『評価制度』の作成です。自分が、会社からどう評価されているかを知るために、委員会をつくり、科学性、社会性、人間性をおり込んだものをつくり、自己評価と上司や同僚からの評価を比べてみて反省材料とし、今後の活動にあてようと、これは専門コンサルタントを迎え時間をかけてつくりあげました。</p>
<p>第3は、『経営指針書』の作成と実践です。作ったらホテルで発表会を行いました。全社員の他に、系列会社の幹部、協力業者、取引先、メーカー商社、取引銀行、同友会の仲間などに集まってもらい、意気込みを表明しました。5ケ年先の中期計画から今年度の計画を立てました。粗利益による６ケ月先行管理・お客様第一主義・社員満足度一番・自立創造型社員づくり・クレーム最優先・地域社会と地球環境を守る……などが骨子となっています。</p>
<p>さらに◎会社の数字の共有化◎ＩＳＯのとりくみ◎風通しのよい社内風土づくり◎地域社会や国際貢献◎人間性を高める文化活動◎地球環境を守る運動に参加する……などを、すべてひっくるめて制度をつくり、日々全社で実践してゆくことが、人間尊重の経営だと思っています。</p>
<p>これらは決して一度に完成するものではありません。時代が変れば、中味も変化してゆくでしょう。そして、どれ程深く徹底しているか　　　と考えると、私は企業の永遠のテーマでもあると思い、こうして『人間尊重の経営』をめざすこととなりました。</p>
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		<title>第23回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 01:11:11 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[三宅会長「生い立ちと歩み」]]></category>

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		<description><![CDATA[この経営理念『美しい生活の創造』には、社長である私の熱い思いや、希望が凝縮されています。私達は、お客様第一主義をかかげて、お客様満足度一番を追求しながら、知識・知恵・技術と努力で奉仕することを第一にうたっています。第二に [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>この経営理念『美しい生活の創造』には、社長である私の熱い思いや、希望が凝縮されています。私達は、お客様第一主義をかかげて、お客様満足度一番を追求しながら、知識・知恵・技術と努力で奉仕することを第一にうたっています。第二には、従業員やその家族・協力業者・取引先の人々が、働きがいや生きがいのもてる会社づくりをすること。第三には、職場をはじめ、地域社会や、さらには地球規模で環境を守って行こう。それらの運動に参加して、美しい地球破壊に反対しようとするものです。長年かけて、我ながら、すばらしい理念だと思いました。しかし、理念だけでは会社は動きません。ビジョン、計画を立て、具体的な目標数値までおとし込まないと、機能しないと、だんだんにわかってきました。これ等を含めた『経営指針書』づくりも又、なかなか進まなくて困りました。</p>
<p>（同友会代表就任）</p>
<p>　1981年（昭和56年）春、私は入会していた香川県中小企業家同友会の会長におされて就任しました。この“同友会”は『良い会社をつくろう』『よい経営者になろう』『よい経営環境をつくろう』と云う3つの目的を持った運動体で、主旨に賛同する中小企業の経営者なら誰でも入会できる任意団体でした。</p>
<p>この会で当時は「経営指針書づくり」と「社員教育」と「共同求人」を三本柱として運動の中心としていました。私は香川で6期目の会長とはいいながら、会員は当時118名でした。（平成20年現在1,600名）3ヶ月ごとに全国幹事会などで上京し、全国のすぐれた経営者と交流するようになりました。</p>
<p> </p>
<p>（経営指針書づくり）</p>
<p>　「指針書は社長が独りでつくった場合、なかなか浸透しないものだ」「つくったけれど活用されず、棚の上でねむっている」などと、よく聞きました。「社員を巻き込んでつくるべきだ」「一泊研修がいい」と教わりました。しかし、率直に云って、私の頭の中には、労組との苦しい経験が焼きついていて、社員みんなの意見を聞いたら、要望がどんどんとエスカレートするのではないか。との恐れがありました。</p>
<p>京都同友会の代表で京都板ガラスの橋本社長から、自分の会社でも一泊研修をやっているが、社員からとても建設的な意見が出されている、と聞き、そのお話に後押しされて、わが社でもついに実行することにしました。全員参加で、大歩危の「ホテルまんなか」までバス2台で出かけ、土日をかけて一泊研修会を行いました。</p>
<p>「人はなぜ働くのか」「どうすれば会社はよくなるか」「わが社の弱みと強み」などテーマをきめて、夜が更けるまでグループ討議を行いました。私が心配した給料や待遇などの話は一切出ないのです。私の方から「週休2日制について」どう思うかと、意見を求めたところ、土曜日を定休にすると、現場でわが社の仕事だけが遅れてしまう。翌日では生コンが固まる。もっと柔軟に考えるべきだ。などと、現場を大事に思う意見が相つぎ、胸が熱くなる思いでした。社員こそ信頼すべきパートナーだとつくづく思いました。</p>
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		<title>第22回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 01:09:15 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[　シリーズ15回目以降、子会社のことで筆が進んでしまったので、三宅産業本体の企業活動を中心とした私の生きざまの方へ戻します。
（多能者の育成）
　時代はバックします。12回に少し書きましたが、三宅産業ではLPガスを基礎と [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>　シリーズ15回目以降、子会社のことで筆が進んでしまったので、三宅産業本体の企業活動を中心とした私の生きざまの方へ戻します。</p>
<p>（多能者の育成）</p>
<p>　時代はバックします。12回に少し書きましたが、三宅産業ではLPガスを基礎として、給排水衛生工事、厨房工事、空調工事、電気工事等から住宅リフォームへと事業を多角展開してゆきました。その中で「多能者」の育成が大事なことだと気付き実行しました。水道工事から入った職人は、電気工事をやりたがらない風潮がありましたが、時代の流れを自覚させ自分の能力をどんどん高め広めて行こうと呼びかけました。とりあえず、一人が５ヶ以上の異なった国家試験に挑戦しよう。そのためには、受験しやすい制度や、合格後は定年退社まで、毎月続けて受取れる褒賞金制度の確立などに力を注ぎました。</p>
<p>それは、こんな事がきっかけでした。私が走行中、あるハウスメーカーの現場の前を通り過ぎ、わが社の社員が５名も立っていることに気が付きました。後から、それは中間検査の立会いであったと聞きました。５人とは、電気工事の職人と管理者、水道工事の職人と管理者、及び営業担当者です。そんなに大勢の人が出て、半日もかかったそうです。請負工事費は３０万程度でした。これではとてもやって行けません。そこで一人の職人が電気工事と水道工事を一緒に施工する力をつけて、工程が定まっている現場では、営業担当者が現場管理を兼務することとしたのです。その方が元請の側もやりやすいと喜ばれました。わが社はこれまで５人かかっていたものが、1.1人に合理化できたわけです。</p>
<p> </p>
<p>（ながァーいおつきあい）</p>
<p>　台所や浴室を改造して、住宅設備機器を納入する。配管工事、電気工事など、すべてわが社で施工させて頂いた後は、燃料（ガスや灯油）もわが社から供給し、火災保険にもご加入を頂く。こうして、このお宅とは、ずーっと半永久的なお付き合いが出来る方向を打ち出しました。</p>
<p>ある日、大阪方面の業者が10人くらいわが社の展示場を見学に来られました。聞けば松下電気の勉強会で、Ｍ社の経営がとり上げられ、地域立脚型企業、お客様への奉仕の心、多能者の育成、お客様との永いお付合いの仕方などを分析して「めざすはＭ社だ」となったとのこと。そのＭ社が三宅産業であったことで大勢の見学となったのにはびっくりしました。</p>
<p> </p>
<p>（経営指針書づくり）</p>
<p>　私が入会している中小企業家同友会で学び始めますと、経営指針書は船の羅針盤と同じだ。目指す方向がわからなくては航海は出来ない。と言うことがよくわかって来ました。指針書を早くつくりあげたい、と心は焦っても、なかなか着手出来ません。</p>
<p>まず「経営理念」づくりに取組みました。自分は、何のために経営しているのか。お客様や社員との関係はどうあるべきか。その根本的な私の考えを一言で表現出来るように考えました。当時は誰も指導してくれる人がなく、本を読んだり、先輩に教わったり、講演を聞いたりして、やっと数年がかりでつくり上げることが出来ました。</p>
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		<title>第21回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 01:07:25 +0000</pubDate>
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		<description><![CDATA[（グリーンライフ設立　東京へ）
　東京蔵前の大通りに面した50坪ほどの店舗を借りて、商社や関係者・友人などをお招きして㈱グリーンライフのオープンセレモニーを行いました。
この会社は㈱シーアイ企画の子会社としたので、三宅産 [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（グリーンライフ設立　東京へ）</p>
<p>　東京蔵前の大通りに面した50坪ほどの店舗を借りて、商社や関係者・友人などをお招きして㈱グリーンライフのオープンセレモニーを行いました。</p>
<p>この会社は㈱シーアイ企画の子会社としたので、三宅産業から云えば“孫会社”になります。会社のメンバーは大手商社の部長を退職した人を専務として、女性デザイナーや営業担当、設営担当など数名のメンバーで発足しました。私が所属している中小企業家同友会の東京のＡ氏も株主となりました。大東京でこのような店舗がうまくゆくか、アンテナショップでもあり期待と不安が交叉していました。</p>
<p>浅草ビューホテル・成田全日空ホテル・ホテルフジタなどへ、800万～1千万程度の契約が出来るなど、まずまずの出発でしたが、バブル後の景気後退は予想以上に厳しくなりました。その上に本社でいる私は、東洋化工の仕事を兼ねて1ヶ月に1回くらいの上京でもあり、私の経営に対する理念が東京の人達には伝わりにくかったと思います。東京の人達は、関西に比べてカッコよく課題を整理しますが、実行が伴っていない事まで出来たように報告を出して来て、後からガッカリすると云うことが続きました。2年経過後は赤字続きとなりました。</p>
<p>（東京より撤退）</p>
<p>　平成４年に全国の住宅地が平均5.6％下落したと公表されました。下落は１７年ぶりのことで、「資産デフレ」の始まりとなりました。まだまだ家賃も下落すると思い交渉したところ、「いくらにしたら良いか云ってくれ」と家主から云われたと聞き、私は松下幸之助さんが「交渉ごとは自分でもびっくりするくらいのことをまず云ってみるべきだ」と書かれていたことを思い出し、（これまで５０万円支払っていたのですが）「２０万円にして欲しい」と連絡したところ、すんなりと承知してくれてこちらがびっくりしました。しかし、それでも経営は厳しく、私も本業の三宅産業の仕事や東洋化工の業務にも忙殺されて、東京のこのグリーンライフへの時間も取りにくくなるなど、ついに撤退を決意することとなりました。</p>
<p>経営者として、将来の展望を画き社員とも夢を語ったはずでしたが、前進すればますます傷口が大きくなることに気付き、名を捨てて実をとらねばと考えたわけです。出店するときは、みんな意気が上がるものですが、撤退は、閉店よりもはるかに大きいエネルギーとお金がかかることだと思い知らされました。一番に雇用している社員のことを考えなければなりません。幸い東京のA氏へ経営権を譲ることとなり、店はそのまま営業を続けることになったので、社員の雇用は守ることが出来てホッとしました。結果として4,000万円程の損失となりました。これまで多角経営の先頭に立って、進め進めと事業展開して一応成功を続けてきた私にとって、経営上のはじめての挫折となり、反省に加えて学ぶべきことが多く出来ました。</p>
<p>この頃（平成6～７年）、本体の三宅産業の事業は順調にのびて、27～28億くらいの売上となっていました。</p>
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		<title>第20回　「私の生い立ちと歩み」</title>
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		<pubDate>Fri, 03 Sep 2010 01:00:37 +0000</pubDate>
		<dc:creator>miyakesan</dc:creator>
				<category><![CDATA[三宅会長「生い立ちと歩み」]]></category>

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		<description><![CDATA[（アーバン・グリーンの販売）
　私は、この地の方言で言う『シンモングイ』のところがあるのかも知れません。手相も好きで、時々みてもらっていたら、私のように「人さし指」より「くすり指」の方が長い人は、好奇心が強く新しいことに [...]]]></description>
			<content:encoded><![CDATA[<p>（アーバン・グリーンの販売）</p>
<p>　私は、この地の方言で言う『シンモングイ』のところがあるのかも知れません。手相も好きで、時々みてもらっていたら、私のように「人さし指」より「くすり指」の方が長い人は、好奇心が強く新しいことに挑戦してゆくタイプだと云われました。</p>
<p>そういえばこれまでにも、新しい商材をとりあげて失敗した例も何度かありながら、「時代の流れにそった新事業の立上げを」と、いつも考え、情報を集めて来ていました。私の姿勢を知ったメーカーや商社や、友人たちからも、いろいろと情報が寄せられて来ました。</p>
<p>そうした中で、三井物産が人工樹木の輸入販売を始めたと知り、ハッとしました。当時は、バブル景気崩壊の直後でしたが、私は商品を見て、価格設定や販売先などを考えてみて、『これはいける<em>！</em>ぜひ事業化したい』と思いました。「ベンジャミン」や「バンブー」など、どれをとっても非常に精巧なもので、葉や花も手で触ってみても本物か人工かわからない程です。生木鉢のような重量でなく、5分の1、10分の1の軽さですし、移動運搬はビックリする程軽く、水やり不要です。『メンテナンスはフリー』です。労力面も含めて、女性の感性を生かして働ける絶好の職場になると感じました。</p>
<p>（㈱シーアイ企画設立）</p>
<p>　平成2年。三宅産業の子会社として、高松支店の所在地へ㈱シーアイ企画を設立しました。高松を拠点として、女性中心の事業活動が始まりました。病院、老人ホーム、ホテル、遊技場、民間事務所、官公庁等々を対象に、１鉢ごとの販売と全館デコレーションの提案から施工までを行ってゆきました。しだいに県下へ拡がりが出来てゆきました。</p>
<p>笑い話があります。あるホテルの隅に庭園をつくり、人工のヤシの木を立て下草をつけていたのですが、施工２年後にその木が倒れそうになりました、それは、お掃除のおばちゃんが、本物のヤシの木だと思って、毎日その木の根元へ水をやってから帰っていたので、木の根元が腐ってしまったためでした。</p>
<p>高松支店の隣に事務所と展示場をつくって2年後、事業もまずまず軌道に乗ってきました。フィリピンやタイで製作したものを輸入し、人工樹木を柱として、造花やその周辺のものを提案販売する店舗は、新しい気風にあふれた明るく楽しい職場でした。私は、この事業活動を東京で成功させたいと考えました。</p>
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